2024-05-18 アティーク・ラヒーミー、『アラブ…』読みはじめ
しずかなインターネットに書くようになってからScrapboxを使わなくなってしまっていた。やっぱりそうそういくつもを抱えておくことはできないんだな。
リンクによってうっすら繋がり重なってゆくことをやはり大事に思うので、ここを使う習慣をもう一度掘り起こす。
ここは雑多に何でも投げ込む場所でいいのかもしれない。
必要なものは切り出して、どこかにコピーしてゆけばいい。
Discordで本の感想を共有するのもいいなと思っていたけれど、読んでもらえるようなものを書いていない。体裁のことは忘れてしばらく書きなぐろう。それにはここがちょうどいい気がする。
勉強だけはNoteでやろうかな。タイマーもかけられるし、アンダーラインも引けるし、勉強には向いた機能がたくさんある。
https://www.youtube.com/watch?v=QuBCa0Fh3yQ&t=296s
書き出し、パレスチナやアウシュビッツなど人間性が剥奪されている中で文学がいかなる力を持ちうるだろうか?と筆者は書く。この数十年、数年の間にも世界には様々なことがあったから、同様のことを考えてきた芸術家は多くいただろうと思う。私も答えを出せぬまま、または時々誰かの発言から、誰かの姿勢から、そのことに対するヒントをもらったり、またそれを取り落としたり、更新したり、してきたと思う。
しかしやはりこの部分を読んで感じてしまうのは、文学や芸術のようなものが必要なのはやはり当事者以外、私達側の世界の方なのだ。もちろん被害に遭っている人もこの世界にいるのだから、この世界に必要なものと関わりがないわけではない。でもやっぱり、そういったものを必要とするのはまず、その人達と関わる私達の側の視線なのであって、周りにいる私達がいくら「どんな状況でも文学が不要なわけはない」と言ったところで、残酷な状況に置かれている被害者にそのことは(少なくとも今の瞬間は)無関係なのだと思う。
でもこれは、最悪な瞬間のことを言っているだけで、被害者が人間として生きていくためにはもちろんそれは必要とされるものだと私も思っている。
でも、周りにいる私達が、彼らにも文学が必要だ、という当てはめ方をするのは(少なくともここまで読んだ段階で考えたこととしては)自分の見たいものを相手に重ねてみようとしている態度であるかもしれないという疑いをいつも持っておくべきだろうという気がした。
岡氏の書くものは、最初私にはまだ理解できず、あとになってから「そういう意味だったのか」と理解が深まってゆくこともあるので、ここに書いたことも後で更新されてゆくかもしれない。一時的な感想にすぎないとは思うのだけれど一応メモしておく。
そして、上に書いた文章がうまく自分の感じたことを説明できているとも思っていない。岡氏の書いていることはこんなに単純なことではないことも今までの著作から分かっているつもりなので…。ただ、やはり持論のために他人の感情や生活について、ほんの少しでも決めつけるようなものの言い方があるならそれは気になるところだ。
もちろん、岡氏の著作からは多くを学んでいるし深く頷くことの方がうんと大きいのだけれど、きっと私は冷徹なまでに、人の物語を自分の物語にしない、ということを求めているんだと思う。素晴らしい書き手だと思うからこそ、より一層の、感情や共感のようなことから離れた部分を望んでしまうんだと思う。
いや、もちろん岡氏の激しい怒りから多くを学んだし、私だって歯が割れそうになるほど憤慨しているけれど。
「物語」について厳しい目を持っている方なので読んでいくうちにこの感覚は更新されていくだろうと思ってはいる。
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